E!12(先行公開)

 

 

意が/をめぐる冒険

 

田中彰 × 澤宏司

司会・構成 矢木奏

 

木との途方もなくユニークな関わりを通して版画作品を発表するアーティストの田中彰氏と、エウレカ・プロジェクトの1人で数理科学者の澤宏司氏。ふたりが初めて顔を合わせたのは2016年のエウレカ・プロジェクト主催の展覧会「創造する相同」であった。当初、田中の言う「樹意伝者」という言葉に興味を覚えつつも今ひとつそのココロをつかみかねていた澤が、ある時突然、樹に「意」を認めるということへの理解に至る。一方、田中にとって澤という新たな理解者は自己の作品に対する考えを深めるための良き伴走者のようになっていく。現在、オペラシティアートギャラリー4Fコリドールで開催中の「Project N 67 田中彰」展(2017年4月8日 ─ 6月25日)に至る制作過程を中心にふたりの対話をお届けする。

 

展覧会をきっかけとして

 

矢木(司会) お2人の対談はずいぶん前からやりたいと思っていましたが、そのきっかけはエウレカ・プロジェクトが主催した展覧会「創造する相同」(2016年2月)でアーティストトークを行った際に、田中さんの発言の内容を受けて、澤さんが突然、田中さんの言う「樹意伝者」という言葉(田中氏が自身のプロフィールに書いた言葉)に対してピンときた、ということがあったんですよね。澤さんのものすごい「ピンときた感」に、私もその 「ピンときた感」がどういうことなのか詳しく聞いて、それをアートの理解のされ方の1つの形として残せたらいいなあと思ったのです。でもそうこうしている間に展覧会から1年以上経ってしまって、その間、田中さんと澤さんはお互いの考えを行き来しながら対話を重ねていらして、現在オペラシティで開催中の田中さんの個展でも澤さんは重要な関わりをされています。そのことは後ほどうかがうとして、澤さんにはまず「創造する相同」展でピンときた感じについて、それがどういった感じだったのか、というところから話していただけますでしょうか。

 

澤 あんなにわかった瞬間というのは他には記憶がないくらい、ピンときました。田中さんのあの時の展示は『E!』バックナンバーを読んだ田中さんが、そこに出てくる語や単語のレベルでいくつか並べたものを知人にお見せして、その人の連想に関してのご制作だったのですよね。だから、最初に聞いた時の印象はセッティングが複雑すぎてよくわからないな、というのが正直なところで、そして6日間の会期の最終日までよくわからないままでした。田中さんの話を聞き、展示のもくろみが「人意の描写、表現」だったことが理解できた瞬間に、「樹意」という語がすっと入ってきました。単に「樹意」と言ってしまうと気持ち悪い擬人化みたいに見えてしまう。人だったら「あの人の気持ち」というのは許されるのに、「樹意」に関する態度はそうではなく、大きく2つに分かれていると思う。1つは「この木は生きている」みたいな、漠然とした生命みたいなの、もう1つはその逆の生命機械論みたいなもの。このように2分化してしまっている状況が実は極端なものだということが、「人意」と比較してみたときにとてもよくわかった気がして、トークの会場ではひとりで興奮して早口でいっぱいしゃべってしまったのだけど、同時にまあしゃべってもいいやと思った(笑)。というのがあの日のことです。

 

田中 それね、何ていうんですかね、これまで樹意だけを考えて制作していたのに対して、澤さんが人意の存在を言葉として提示してくれた瞬間だったのかなと思います。樹意の中に人意があって、人意の中に樹意があるというのが澤さんの話。

 


「創造する相同」展より
田中彰《「E!」文中から抜粋した言葉》
和紙、インク/185x240mm/2016

 


「創造する相同」展より
田中彰《抜粋した言葉の中から選んだひとつをイメージ化したもの》
木版画、和紙、インク/200x270mm(8点)/2016

 

澤 ちょっと語弊があるかもしれないけれど、その樹意があってもいいというのが、内部観測なわけですよ。自分以外のものに対して意を認めるというのはどういうことかというのが、内部観測の肝なんですよ。それらのうちで、比較的人が認めやすいものが樹意かなと思います。内部観測の提唱者である松野孝一郎さんは、あまりそうとは明言しませんが、原子・分子の「意」に言及する。分子や人、いわば他者に意を認めることの定義は人によってだいぶ違う。それで必然的にコミュニケーションとかインフォメーションとかも検討しなくてはならなくなると思うんですけど、そのあたりに関しても松野さんはだいぶ人とは違った見方をしている。だからこそ面白いって思われたり、逆によくわからないって思われたりっていう状況なんですよ。だから、いきなり分子に意があるって言っちゃうと、多分やばい人になっちゃうから、そうなる手前、我々普通の人がなじめるものの1つとして、樹意というのはとてもいい。樹意に関して考えたことによって、私も内部観測への理解がだいぶ深まったんです。樹意を考えてよい、しかも裏付けのない自然主義みたいなのとは違うかたちで樹意というのを認めてよいっていうのを、私は田中さんの展示で理解したんです。人意をトリガーとして、樹意を、気持ち悪くないかたちで、認めることができた。さっきもお話しましたけど大きな解離があるのですよ。「木は生きている」という木と、例えばここにもある加工後の木製テーブルの「全然生きてない木」。ここに大きなギャップがあるのだけれども、その真ん中あたりを考えてもいいんだっていうことが田中さんの作品でわかったんです。そして今、田中さんがおっしゃったように、樹意という人意以外の意を認め、それらの間のコミュニケーションを考えることは結果として、人意あるいは意そのものについて考えることにつながります。

 

版画と焙煎

 

矢木 「創造する相同」展の後、田中さんの三菱一号館歴史資料室での個展「樹について」(2016年3月4日 ー 5月22日) や名古屋のGALLERY blankaでの展示(「construct/carving」彫刻家宮本宗氏と田中氏の2人展)に澤さんは足を運んでいらっしゃいますよね。名古屋ではトークもなさって。

 

澤 ギャラリーでのアーティストトークの司会(?)なんて初めてだし不相応だしで緊張しましたが、頑張りました(笑)。とても面白かったです。鉄の宮本宗さんと木の田中さん、という構図で展開したつもりです。

 


GALLERY blanka「construct/carving」展でのアーティストトーク
左:田中彰氏 右:澤宏司氏

 


田中彰《コーヒー豆生産国のためのラベル》78点組の1点
木版、油性インク、西の内和紙/330x240mm /2017

 

矢木 田中さんは名古屋の時はすでにコーヒーに関することを作品にしていたのですか?

 

田中 えーとね。単純に焙煎して、ラベルを版画で作っていたところまでです。ただその時は今オペラシティで展示している《コーヒー豆生産国のためのラベル》をすべて作るところまでは行っていませんでした。他にパペット(後出)や熱だとか、そういう要素が頭の中で整理して結びついてなくて、ただ同時期に制作している。虫眼鏡で焼いた流木だったり、望遠鏡で星を目視して暗闇で電熱ペンを使って版木を焦がしたりだとか、あと、実際に虫眼鏡で流木を焼いた様子は映像にしました。
一号館の展示が終わって、熱だなって、なんか、熱がテーマになりそうだなっていう感覚があった、コーヒー、どのタイミングだったかな、2015年の暮れくらいに、焙煎機がやって来て、焙煎しだしたら、想像と全部が違った。豆の種類によって温度や時間が違うとか、それで味や香りが変わったり自分も手順を変えなきゃいけない、豆の良さを引き出すためにアプローチを変えていくみたいな、その辺がやって気づいたことで、版画と同じだと思ったんです。工程が最終的なものになるというプロセスが似ているから、これはやれると思ったんです。やったことがないことじゃないなって、焙煎して、その豆の良さ引き出すみたいなのは今までずっとやってるじゃんって感じだったので、わりとすんなりいったっていう。

 

澤 頭で考えてやるっていうより、焙煎やった後に、あ、一緒じゃんと思ったんですね。

 

田中 そうですね。

 

澤 そこからはとにかく手を動かしたみたいな感じですか? それが《木に人を接ぐ》につながったと。

 

田中 そうですね。「接」って、接ぐっていう、接ぎ木から来てると思うんですけど、それが、面白い。何が接げるのか、誰が接いでるのか、そういうのを頭に入れて制作してました。手を加えることで変化していくってことが、共通してたから、それがパペットになったり、熱が加わった瞬間にコーヒー豆がおいしくなったり、変化していくっていうのが、生命力を帯びるみたいなのにちょっと近くて、それをコーヒーの袋に詰めていくと、無機質じゃなくなるというか、そんな感じですね。構成されているものが、版画って厚みがゼロなので、表面だけしかない。でも豆が入った瞬間に、そこに構造が生まれて、いろんなものが入っていく。

 


コーヒー豆を袋に詰める

 

流木が/をめぐる冒険

 

矢木 田中さんのウェブサイトに流木に関する映像作品が載っていますね。

 

田中 そう、あれは名古屋の時に会場の壁に投影してました。

 

矢木 じゃあ、流木の作品もその時にはもう始めていたのですね。

 

田中 流木の焼いたのありましたね。名古屋ではそれについて、主に話をしました。

 

矢木 田中さんから初めに流木の作品に関するアイデアをうかがった時、確か流木を拾って海に戻して、そうするとまたその流木が戻ってきてみたいな、海を介して流木とやり取りするのかなっていう想像をしてたのですが。

 

田中 その映像は全部カットしてるんですけど、巨大な流木を延々と海に戻してて、何度戻しても戻ってきちゃって、だんだん海に自分が引きずり込まれて。

 


GALLERY blanka「construct/carving」展
田中彰《樹木の航海》
映像、28分/2016

 

澤 流木を海に戻すというのは、子犬とじゃれ合うみたいな感覚ですか?

 

田中 なんか、やっと遠くに行ったと思ったら、凄い勢いで戻ってきて。自分に帰ってきちゃう。

 

澤 我々がなじんでいると思っている子犬だったら、あーもう子犬かわいいなあ、戻ってきちゃてしょうがないなあ、みたいな感じになるわけじゃないですか。そのひとつ遠いものとして、流木を置いてもいいはずなんですよ。それで、その延長線上の一番向こうに、分子とかがあるとも言えると思うんですよ。流木とか子犬とかがあってその遠い先に分子、というのはそんなに不自然な流れではない。不自然だと思う人はいるし、多いと思うんです。でも不自然だと思うことに関してご自身でも考えないと、多くのことを不自然だと思うままで生涯を終えてしまいます。

 

田中 あ、でも、その、わかんないから付き合ってるっていうような感じがする。あと、思いっきり流木投げまくってたんです。ひたすら。それも帰ってきちゃう。
虫眼鏡で焼いたやつは全部取ってあります。投げるタイミングがなんだかなくて、取っておいちゃう。頭ではコンセプトとかあるじゃないですか、アートだから投げたほうが絶対いいんですけど。そうすると、テキストとしてはオチがつくんですが投げれないっていうのがある。

 

矢木 それは、何だろう、愛着みたいなものですか?

 

田中 それがわからないから、なんですかね。とりあえず家にありますね。あと《木に人を接ぐ》のために流木のスケッチをたくさんしていて、1カ月後に同じ流木に出会っちゃうときがある。同じスケッチがあるんですよね。何枚か。

 

澤 同じ流木に出会っちゃう!

 

田中 ちょっと場所が変わって出会っちゃう。種類が、なんかこう、認識できちゃって、あ、こいつ描いたなとか、またあれだとかって。それで気づいたらでかいの焼いてて、持って帰れない。自転車じゃ運べない。あと、曇ってくると最後まで焦がしきれないときがある。名古屋の時は浜辺で刷るところまでやってたんですけど、今は1回持って帰ってくるんです。でかい流木とかは4回くらいに分けて焼いていきます。別に誰にも持っていかれないですからね。嵐がない限りそこにある。ときどき焼いて、他の忘れてた焼き途中のやつに出会うみたいな。まあ、そういうのがあったり。

 


平磯白亜紀層、ひたちなか市

 

虫眼鏡で時を集める

 

澤 名古屋で拝見した作品は虫眼鏡で焼いてましたが、いつも虫眼鏡ですか?

 

田中 そうですね。

 

澤 会場でもお話しましたが、虫眼鏡であることには意味があると思います。つまり人が作った装置であるけれども、自然の光を集めているから、自然の時間の圧縮とも言える。

 

田中 うん、うん。

 

澤 だから展示に際しても非常にいい装置。賢く、見やすく、鑑賞者もわかりやすい。単にバーナーで焼くっていうのとはちょっと違う。虫眼鏡は時間を集めているわけじゃないですか。光を集めるってことは、時間を集めるってことだから。だから、時間を人がコントロールして、自然に施すっていうところもとてもいいと思います。バーナーも人が作った装置だから、長い目で見たら人の時間が入ってるんだけれども、虫眼鏡は作品としてよりわかりやすく、ちょっと考えれば気づける。言い過ぎかなと思いつつも言いますが、タイムマシンだと思うんですよ、虫眼鏡って。そういうのをわかってもらいたいっていつも思う(笑)。

 


大洗海岸、大洗町

 

田中 流木焼いて刷った版画は、漂流している間にできた元々の傷が、持っている時間の蓄積に対して、まったく違った時間軸を入れるっていうイメージなんです。

 

澤 それが人意なんだと思います。人意としてのバーナーは工業史が入っちゃう。そこまでスコープに入れて見せる、というのでもいいと思うけど、その前として、虫眼鏡ならば人の歴史まで匂ってくるっていうか。虫眼鏡からバーナーになってという、虫眼鏡を提示することによって人の技術史を見てもらえる。虫眼鏡の後にバーナー、となると『2001年 宇宙の旅』のこん棒が宇宙船になるのと同じものを見ることができる。私にはそのほうがわかりやすいし、わかってくれる人のほうが多い気がする。

 

田中 その、電熱ペンで版画を彫ってるじゃないですか。そっちが先にあって、その後に虫眼鏡に行ってるんです。それが、虫眼鏡やって電熱ペンってわけでもなくて、電熱ペンやったら虫眼鏡に戻ったって感じです。

 

流木の痕跡、コーヒーの移動

 

田中 自分の制作は経験から来ることが多いです。なにかアクションを起こしてそれを発見するみたいなことが多い。例えば真剣に流木を見てると、もともとそれが何だったのか見えてくるんです、材質や形とかで。それが家具だったり、柱の一部だったり見えてきたりするんですよね。流木ってなんかアバウトな表現じゃないですか。本当はもうちょっと細かくて、個性があることに気づくんです。人の痕跡があったりして、そういうのが見えてきたりすると、説明がしづらいんですけど、過去とか未来がよくわかんなくなってくるんです。木の化石とか、子供の時にいっぱい拾っていて、それには人間の痕跡が全然なくて、わりと木って感じなんですけど、流木をだんだん観察してると、化石に見えてきて、そこに人の痕跡がすごくあって、これが時代が進んでいくと人の痕跡がそのまま化石になっていくっていうような感覚がある。身近な机とかも流木と境目がなくなってしまうときがあります。
その流木に個性がある感じと、産地によってコーヒー豆に個性がある感じっていうのがすごい似てるんですよね。その土地の成分とか味がその1粒に全部入っちゃうっていうのが、流木に近くて、かつ移動しているっていう。人を介してコーヒー豆が船で移動していくというのと、流木が海を経由して循環している感じが、僕の中では一緒っていう感覚なんです。これは全然、木のことじゃないんですけど、子供の頃にカタツムリの動きを見ていて、雲が流れてくるのと全く一緒だと思ったんです。速度とか、目に見えるもの、スケールも違うのに、同じに感じるところに昔から興味があるんです。

 


田中彰《世界のコーヒー豆》
生豆、木、ガラス/110xφ75mm/2017

 

田中 澤さんがオペラシティの展示準備の前に書いてくれたことでもあるのですが(澤氏によるテキスト「木に人を接ぐ」この対談の最後に掲載)、コーヒーに関していうと、バリスタがいたりとか、農家の人がいたりとか、さらにランク付けする人とかいたり、いろんな人が関わりをもって移動していっている。これは木の一部であるコーヒーの実としての移動でもあるわけです。人との関わり方が密接なんだけど、それをまったく感じさせずに自然と日常にあって、口に入る。

 

澤 コーヒーの循環と流木の循環から発想を得た田中さんの制作行為によって起きることっていうのは、人の地位、能力を少し下げて、それ以外の能力を少し上げることだと思うんです。それで両者が少し近づく。それで私はわかったと思ったんです。つまり、人の、人への信頼をちょっと下げて、物への評価をちょっと上げる。それで、例えば水に話しかけちゃう人が、そのことによって、この2つの距離をちょっとでも近づけようとしているのだとすれば、ただの気持ち悪い話じゃなくて、わかった! ということになると思う。そういうことを田中さんはやるから僕は非常に共感できるっていうのがあります。

 

子どもも大人も回廊をめぐる

 

矢木 先ほど田中さんもおっしゃっていた、オペラシティでの展示の構想段階で澤さんが田中さんのために書かれた「木に人を接ぐ」というテキスト(この対談の最後に掲載)ですが、これはわりとさささっと書かれた感じなんですか?

 

澤 最後にてにをはの推敲とかはやりますけど、大枠はわりとさささ、でした。1年前にもうわかったと思ってましたから。すごい楽しかったですよ。ああいうことを書くのは本当に最高級に楽しい。

 

矢木 田中さんから展示プランを聞いて、想像してテキストを書いて、さらに実際に展示を見た時に、どのように受け取られたのでしょうか。

 

澤 通路右側の《木に人を接ぐ》は、こう来たか! みたいな。

 

田中 右側の? コーヒーパペットのことですね。

 

澤 とても大きい作品だけど、大きいだけじゃなくて、歩く行為における時間の流れと流木の時間の流れを重ねるというのは全く予想していなかったですね。どういう場所なのかっていうことはうかがっていたし、プランも聞いていたから、想像はしていたんだけども、《木に人を接ぐ》の構成は予想外でした。ちょっとびっくりしたし、何ていうのかな、普通に考えたら情報量が多すぎるじゃないですか。《木に人を接ぐ》は1点1点の作品だけでもかなりの情報が入っているのに、それが300点も並んでいる。その上、その中にはコーヒー豆が入っているというように、何層にもなっている。知っていたからかもしれないけど、それでもあまり違和感がない、盛りすぎな感じはしないっていうか。他の人の鑑賞の様子を見ていて思ったんですけど、見ている人が通り過ぎてしまう、心地よく思うだけでもいいのかなって勝手にちょっと思っています。空間としてもとてもいい空間だし。

 

田中 この会場って大作の絵画を淡々と置かれることが多くて、引きが取れない分圧迫感があって、それっていいのかなっていうのはあったんです。最初、ここで展示ですよって言われて、会場を見るじゃないですか? 基本的には平面の新しいことにチャレンジしている作家の今までの作品を並べるケースが基本で、ここ数年の作品がまとめてあるみたいな。それを見せる感じなんですけど細長いし苦しい回廊っていう印象なんです。それをなんとか変えたいっていうのがありました。

 

澤 今回の回廊は、田中さんの木をくりぬいた洞窟《MALTAMIRA》や「虫取り」の作品《Tunnel bench for the children》と比較して考えたほうがいいんじゃないかと思っています。どっちも回廊なんですよ。今回は大人向け、「虫取り」は子ども向け、この2タイプ。「虫取り」の回廊は虫を採らせてくれるんですよね。逆に《木に人を接ぐ》は、採らせてくれないんですよ。そこをうまくもう少しまとめたいと思っているんですけど、何なのかな。大人には採らせてくれないのかな、とか思ったり。

 

田中 しかも、あの、構造は逆ですもんね。

 

澤 そうなんですよ。

 

田中 向こうはへこんでて、今回は膨らんでるから。

 

澤 そうそう、だからそこは対照的に考えたほうがいいんじゃないかと。

 

矢木 でも、コーヒー買えばいいんですよね?

 

澤 あーなるほど、大人はコーヒーを買えばいいのか。

 

矢木 大人だから(笑)。

 


オペラシティアートギャラリー4階コリドール
project N 67 田中彰 個展 会場風景

 


田中彰《MALTAMIRA》
ヒマラヤスギに電熱ペンで描画/200x150x700cm/2014

 


田中彰《Tunnel Bench for the children》
木に電熱ペンで描画/100x120x400cm/2016

 

田中 コーヒーの入った袋《接木人ブレンド》を、実際に会場に展示されていることを一切知らない人に渡して、その人が会場に来た時が一番狙い通りなんですよね。展示を見て、コーヒー豆が入った接木人って書いた袋を開けるより、最初によくわかんないけど、手に入れて文字を読んでイエメンとか雲南省とか書いてあったりして、何なんだろうと思ってとりあえず飲んでみて、展示を見た時がより面白い。それで、完了って感じがする。装置の。

 

澤 流木が帰ってくるみたいなもんですよね。

 

田中 澤さんのテキストで回廊にいる時以外のことが書いてあるじゃないですか。展示を見た後にコーヒーを飲むのが面白い、展示を見終わっているのに続いていく。そういうのは今まであんまりない。

 

澤 そのとおりですね。

 

田中 今回の展示の壁(《木に人を接ぐ》の作品を展示している壁)にそのままの流木を展示する方法もあるわけです。流木そのものを集めて、それで木をつくってもいいわけで。 《木に人を接ぐ》は川から海へ流木が漂流するイメージで作品が配置されていて、最後は流木が海辺に集まって大きな木になっています。その1つ1つをパペットと呼んでいます。袋の中に物が詰まっているという意味で。制作過程でだんだん愛着が出てくるんですよね。自分で焙煎した豆を中に入れて、自分自身も同じコーヒーを飲んで制作していると、作品と自分がだんだん近くなる。でも本物の流木でやると自然すぎて見ないんです、人が。それは何でなのかというと、あー流木だ、と感じて終わるんです。そこでもう世界は閉じてしまうので、その先に行くために、豆を焙煎して何袋かのサイズに分けて詰めて、密閉して、余白をカットして、木版画を表面に貼る工程を経て、 流木よりも流木として存在する。スケール感も変わってしまって、3cmの流木が40cmのパペットになったり、本来のスケールと異なるものをいくつかの同じ規格に揃えたほうがみやすい。

 


田中彰《木に人を接ぐ》(部分)
木版、油性インク、雁皮紙、茶袋、コーヒー豆/サイズ可変/2017

 


田中彰《木に人を接ぐ》(部分)
木版、油性インク、雁皮紙、茶袋、コーヒー豆/サイズ可変/2017

 

澤 なぜ流木じゃなくて、コーヒー豆を詰めたパペットなのかっていうのは、人と木のミルフィーユみたいに考えるとたぶん理解しやすい。

 

田中 まさしくそうです。パペットにマチがあるじゃないですか。マチって中に物を入れるために袋の構造上あるんですけど、それがとても大事で、それがあることで1つ先に行けるんです。これがないと普通の版画なんです。だから、マチがあった瞬間に意思を持つっていう。澤さんが言ったミルフィーユみたいな部分がマチの部分で、そこにコーヒーの解説、ガス抜きのことも書いてあったり、そこにコーヒーが厚みとしてある。そういう構造です。

 

版木が紙をつなぐ

 

澤 あれの話をしましょう。作品が紙をつなぐ話を。

 

矢木 先ほども話していた流木を虫眼鏡で焼いて刷った《樹木の航海》ですね。1つの流木を複数の紙に分けて刷ってある。

 

田中 あれは、ほんと後半に気づいたんですが、基本的には版画は版を紙に収めるように刷るんですが、紙と紙をつなぐ要素として版が機能することに気づいたんです。それがすごく面白くて。よく、木の机の天板が時間と共に裂けてしまうのをつなぎ留めるために、ブックマッチっていうリボン型の木を埋め込むんですよね。それがあることで1枚の板になるんです、それによってすごい強度がでるんですよ。

 

澤 強度っていうのは?

 

田中 えーっとね、ブックマッチが一枚の板にあるのと、流木が紙と紙が接しているところに刷ってある、どちらも別の素材や要素なのに一体感があるんです。

 

澤 版木を置いたことによる、紙と紙が合わさることの妥当性みたいなことですか?

 

田中 そうですね。うん、紙に対して、流木である版木が、何ていったらいいか・・・。

 

澤 例えば街を歩いていて、気に留めない、目が止まらない動きは、滑らかな動きだと思うんです。角の立つ、滑らかでない動き、数学っぽくいうと微分不可能な動きをすると目が行くんですよ。急な方向転換は目が引き寄せられちゃう。逆に、滑らかな動きは微分可能な関数みたいと言えるなと。で、ここまでを前提として、2つ以上の関数を滑らかにつなぐっていう技術もあって。それは、こっちのシステムをこっちのシステムに合わせればいいだけで、とにかく、2つ以上の物をつなぐ方法、理屈みたいなものがあるわけです。っていうのを、そもそもこの紙とあの紙は全然由来が違うはずなのに版木を真ん中に置いてそういう風にしたことによって、この木とこの木が滑らかにつながったみたいな印象が出てくるっていうことですか。

 

田中 そうですね。うーんと。

 

澤 紙と紙の出自が違うっていうのはわかるし、それ以上に版木っていう、また全然出自の違う物を置いているはずなのに、さらに田中さんの意図が入っているじゃないですか。そこで何で滑らかな結合が出てくるのかっていうのはかなり考える価値があると思うんです。先週聞いた時に、直観的には理解できたんだけど、何でかなって思ったんですよね。それがいまいち自分でもわからなくて。何ででしょうね。

 


a.
田中彰《樹木の航海》
木版、流木、虫眼鏡、太陽光、油性インク、ロクタ紙/サイズ可変/2016-17

 

b.
田中彰《樹木の航海》
木版、流木、虫眼鏡、太陽光、油性インク、ロクタ紙/サイズ可変/2016-17

 


c.
田中彰《樹木の航海》
木版、流木、虫眼鏡、太陽光、油性インク、ロクタ紙/サイズ可変/2016-17

 

矢木 この写真のbみたいな感じだと、まあこの例だと微妙ですけど、刷られた流木の大きさによっては、紙の大きさがちょっと足りなそうだからとりあえず 2枚に刷りました、って感じに見えなくもないですよね。 cも同じように6枚を横つなぎにして版を納めることができるけど、12枚使ってわざわざつなぎ目のところで刷ってるから、 継ぐための版 と継がれた紙、両方が見えてくる。 一方でaは 版と紙一対一だけどその関係性よりも図像が見えてくる。今回 cのやり方 によって版と紙の関係を見せることに成功した、それを田中さんが発見したのだと私は理解しました。

 

田中 aはすごい閉じこめられた感じなんだけど、cになった瞬間に流木自体に、動きが出るんですよね。何だろう、aは紙の継ぎ目がないじゃないですか。bも余白に縛られてる感じが減ってcに近いんですけどね。

 

澤 cで版木の動きが出てくるというのはとてもよくわかるんですよ。それと紙の連続性がちょっとまだつながらなくて。確かにはみ出てるほうが動きを感じる。aは閉じこめられてる感じがあるじゃないですか。それは何なんだろうなと。つまり、うーん何だろうな、全面の図象を見ている時に、背景として下がった紙そのものが、背景として下がったゆえにアテンションが低くなくなって1つの物として見ざるを得ないということなんですかね。どうなんだろう?

 

田中 同じサイズの紙の向きを縦で統一して、横とか一切なく展示しました。

 

澤 図と地の文脈で考えて、地という1つの図を見た時に、地の1つ1つが立ち上がってくるゆえに、1枚の紙が1つの地続きのものとして立ち上がるみたいなイメージですかね?

 

田中 うんうん。

 

澤 その時に、あくまで地は地なのでどういう由来できたものなのかを見ていなくて、見ていないから立ち上がりやすいのかな。

 

田中 なんか、色々試して違いがわかったりして、結局終わりのほうに、このcに使われているシステムがすごく美しいってことに気づきました。

 

澤 そうですよね。

 

田中 手のひらくらいの物なのに、例えばそれが収まるサイズの1枚に刷ればいいのに、4つで分割して刷ったほうがすっごいきれいなんです、物として。なんだけど、最初のほうに作ったaやbがあっても別に、展示としてはたぶんよくて、cが際立ったりするし。aは極めて静的で、cは動的。これは、発展の余地がありそうな感じがします。

 

澤 本当にそう思います。余白の余地が、裂け目があるっていう可能性、潜在性が他へとつなぎやすくするのだけども、それ以上に、裂け目があるがゆえに連続性を考えることが立ち上がるみたいな。aだと連続性を考える余地はない。のっぺりしていて当たり前に連続だから、連続性を考える必要がない。cだと一度図を見て、裂け目を見て、切れてると思うと同時に、切れてるけどつながってるなっていうのは、切れてるからゆえに連続的なものを見やすくなるっていうのかな。

 

田中 それが自然なんですよ。

 

澤 そうですよね。

 

田中 見た人もそう感じる気がします。

 

澤 それはすごいわかりました。これはやっぱ枠に入るからですよ、静的な枠になるから。枠になったときに枠っていうのを2つ並べてみたときに意識せざるを得なくなる。

 

田中 つなぐことを意識して刷ると、全体のバランスがすごい取れる感じです。

 

矢木 版木が糊なんですよね、テープというか。で、例えばこの版木で8枚の紙1枚につなぎなさいって言われたら、絶対に必要な大きさが糊の側にもあって、紙と糊のどちらが勝つというのではないバランスになる。

 

田中 今回、作品を配送する時に、コンパクトすぎて不安だったんです。足りてんのかな、作品が入った箱が10数個くらいしかなくて、学芸員さんが配送先に50って書いてあって、いろいろ入れても16個くらいしかなくて、配送する人に数足りてませんけどって聞かれて、ますます心配になるじゃないですか、会場広いし。と思ってたら、開けてみると、そうでもなくて、なんか軽くなった、物質的には軽いという方向になってた。何ですかね、マテリアルの強さとかじゃないのがいいのかな。

 

澤 木を感じさせる一番簡単な方法は木を見てもらうことじゃないですか。それを見せずに感じてもらうところが、作家の腕の見せどころですよね。木を見せようとするときに実際に木を見せる度合いが変化したというのを今回、田中さんご自身が感じた。同じことは科学でも言える。例えば宇宙を知ってもらうためには、宇宙の地図、しかも1/1のスケールの地図を見てもらうのが一番簡単なんだけど、実際には圧縮したりスケールを小さくしたりして見せざるを得ない。どれだけ妥当性を持ってもらって見せるかというのが科学における重要なことの1つだと思います。1/1のスケールは科学ではない。

 

濃厚な時間を味わう

 

田中 コーヒー豆が入った袋の立体を流木だって認識できるのが結構面白いと思うんですよ。

 

澤 かなり手が込んでますね。

 

田中 素材としては近いもので作られていますよね、紙や豆や木版など。

 

澤 最初の話と近づきますが、ちょっと大げさな言い方をすれば、コーヒー豆が中に入ってるということは人類の時間が入ってるわけじゃないですか、コーヒーという技術の時間が。技術をもって自然を描写するいうのはいい意味で倒錯していて、濃厚な情報ですよね。

 

田中 うん。

 

澤 見た人がそれを自然なかたちで受け入れることができるか否かが作家さんの腕の見せどころですよね。もしそれを有効に見せることができたとしたら、技術の妥当性、つまりその技術は無理して作ったものではないんだってことになる。虫眼鏡も太陽光を圧縮して入れているじゃないですか。それは何重かの入れ子構造になっているけれども、違和感を持つことなく鑑賞できた人にとっては、その構造のどの層もリーズナブルなものだっていうことになりますよね。それは、だとしたら、すごい濃厚なんじゃないかと。濾して濾してみたいな。その鑑賞行為自体が作品や技術の裏付けになると言えるんじゃないかなって思います。

 

田中 エスプレッソな感じですよね。

 

澤 かなりエスプレッソですよ。

 

田中 流木自体は人間の力だけでは作れないじゃないですか、時を経てそこにあるみたいなのを。それを作るのはとても楽しい。

 

澤 流木風の物を作るっていうだけでまず一重に倒錯している。そういうことをする人は結構いると思うんだけど、さらに内部に情報とか時間とかが入っている作品、制作は語ることがいっぱいあって、いいなって思います。

 

 

木に人を接ぐ

 

澤宏司

 

田中彰の制作は、木の意を伝えるための営みである。

 

観られることと観ること

ホワイトキューブの鑑賞者は、眼だけの存在となり作品の海を回遊する。移動を担う脚、情報処理にあたる脳は、意識の後方に後退している。

作品は観られるときを待つ。作家の手を離れたそのときから、人と人の逢瀬のように長大な偶然に任せて、鑑賞者が来るのをただ静かに待っている。

鑑賞者は観る。作品は観られる。本当だろうか。

 

木と人

木は喋らず、意を持たず、ただ佇む。人は脚で地をかけ、手芸を施し、五感で意を交わす。木々と人々の交感において、受動と能動の立場は明らかなように見える。

木版画家は木に意匠を施し、自らの意を示す。作家と木は自律的存在と媒体の関係にある。

珈琲豆の栽培家やバリスタは供される一杯のために意を尽くす。喫茶を巡る人と木も同様、自律と媒体の関係をなす。しかしながら例えばバリスタによる豆の研究を考えると、我々は珈琲豆の個性を再認するだろう。栽培家も土壌や日光による珈琲の特徴を知っているはずだ。

木には個性がある。

田中の制作は木の個性を前提とする。硬い節が田中の刃の行く手を邪魔する。幹の水分が虫眼鏡の集光による発火を拒む。田中は木の本来的な能動性を読みながら、自らの避けがたい受動性に思い至る。木と人の、受動と能動の反転が姿をあらわす。

 

鑑賞と被観賞と作家

受動と能動が不分明となり、いわば木と人の共作となった作品群がここにある。紙に映った図象や、かつて木の生そのものであった版木をあなたは鑑賞する。木に生まれ、人為にさらされたのちに、人という生に再侵入する珈琲をあなたは味わう。心地よくなったあなたは、ああ楽しかった、美味しかったと思うだろう。だがそれだけではない。順路が定められたこの細長い回廊を抜けるとき、あなたは、特権的な鑑賞者に留まることができないことに気づいてしまう。回遊には不要だった脚が、手が、脳が回復する。自分が身体を伴うことを知り、能動と受動の不分明をも知ったあなたは、被鑑賞者にもなりえることに気づく。鑑賞と被観賞は表裏一体であり、どちらかに専従することは不可能である。田中という媒体を経たあなたは、この回廊の向こうで、あるいは珈琲を嗜む部屋で、このことを思い出す。

 

 

展覧会情報

project N 67 田中彰 個展「木に人を接ぐ

会場:東京オペラシティ アートギャラリー 4Fコリドール

期間:2017.4.8[土]─ 2017.6.25[日]

開館時間:11:00 ─ 19:00

(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)

休館日:月曜日(祝日の場合は翌火曜日)

入場料:企画展「片山正通的百科全書 Life is hard… Let’s go shopping.」、

収蔵品展「ブラック&ホワイト ─ 色いろいろ」の入場料に含まれます。

(収蔵品展/project Nのみの鑑賞は200円)

主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団

 

田中彰ウェブサイト

 

編集協力:遠山ふみ